新・魚のサカナ(鯛のタイ)図鑑(引越中)

いわゆる「鯛のタイ」の写真集

【番外編】鯛の九つ道具(その2)

(その1)を未読の場合はそちらを先にご覧下さい>


それでは、歴史上どれほど前から「鯛の九つ道具」の存在が知られていたのかを紐解いてみよう。

はじめにお断りしておくが、これまでに出版された膨大な数の古文献を全て調査するのは物理的にも不可能であるため、本稿の内容、特に初出文献に関する記述は全て「今回筆者の調べが付いた限り」という『但し書き』付きである(ちなみに今回調査した文献に関しては、本稿および本稿末の【文献リスト】を参照)。なお文献の検索には「日本の医薬・博物著述年表」および「江戸期の本草・名物・物産・博物書 成立・初版年表」の2つのサイトの情報が大変役に立った。また各文献は筆者なりに念入りに調査したつもりだが、なにしろ古文/漢文とも門外漢であるため重要な文章/図表などを見逃している可能性も低くない。筆者の「見逃し」や「誤解」、更には読み下し文などの「間違い」に気づかれた場合、また本文中で紹介したもの以外に「鯛の九つ道具」関連の記載が含まれる古書籍をご存知の方は是非情報をお寄せ下さい。

さて本題。

「鯛の九つ道具」の中で最も古い文献記録を持つのはどうやら「鳴門骨」(ただしまだこの名前で呼ばれてはいない)となりそうで、日本の本草書の最高峰といわれる有名な『本朝食鑑』(ホンチョウ ショクカガミ/ホンチョウ ショッカン)の中にそれに関する記述が確認できる。

そもそも本草とは「薬の元になる草」という意味で、このような薬草を含め薬になる天然/自然の産物を研究する学問が本草学。『本朝食鑑』は幕府お抱えの医者であった人見必大(丹岳・千里・野必大とも名乗ったとか)が、明の万暦23(1596)年に李時珍が著わした中国本草学の集大成『本草綱目』に依拠しつつ、「民の日常生活に用いる食物の好悪について弁別する」という意図をもって検討を加え、国産の魚貝類なども含めて解説した書で、元禄10(1697)年に12巻10冊本として刊行されたもの。その全ページが国立国会図書館によりデジタル化されており、同館のサイト「国立国会図書館デジタル化資料」で閲覧可能となっている。また平凡社東洋文庫から現代語訳注付きの『本朝食鑑』が出版されており、2012年7月現在eBookJapanのサイトで電子書籍版の購入が可能(ちなみに書籍版は平凡社のサイトでもほぼ絶版状態である)。

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本朝食鑑(ホンチョウ ショクカガミ/ホンチョウ ショッカン)第8巻【鱗部】』に、その後「鯛の九つ道具」の内「鳴門骨」と呼ばれるようになる骨腫に関する記述がある(リンク先の左にある「目次・巻号」> [8][38] > 上のページ数「4/38」の左ページ3行目)。

【原文】一種形色如常有肉中大骨節邉着瘤子者俗所謂諸海之鯛過阿波鳴門灘而骨労則生瘤未知果然
【訳文】一種に、形・色は普通で、肉の中の大骨の節の辺に瘤子をつけたものがある。俗に、鯛が阿波の鳴門の急灘を乗り切ると骨が労(つか)れるので瘤が出来るといわれている。はたしてそうなのか、未だ分からない。
(島田勇雄訳注『本朝食鑑4』/東洋文庫より引用)

上記部分は後述する『水族写真鯛部』にも文献名付きで参照されているが、そこでは「之を本朝食鏡に瘤鯛と云」と実際には『本朝食鑑』に書かれていない『瘤鯛』という単語を使用している。

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【参考】福岡藩医で、本草学者/儒学者でもあった貝原益軒が編纂し、宝永7(1709)年に刊行された、こちらも有名な本草書『大和本草(ヤマトホンゾウ)巻之十三/魚之下 海魚』にも「棘鬣魚(タヒ、たい、鯛)」の項がある。中村学園大学の「電子図書館」のコーナーからPDFファイルをダウンロードして該当部分を調べてみたが、残念ながらこちらには「鯛の九つ道具」関連の記載は見つけられなかった。


『本朝食鑑』の次に「鯛の九つ道具」関連の記載が確認できた文献は、これも有名な『和漢三才図会』(『倭漢三才図会』『和漢三才圖會』/ワカン サンサイ ズエ)である。

『和漢三才図会』は、明の王圻(おうき)が編んだ『三才図会』を手本として、大坂の医師であった寺島良安が編纂した、正徳2(1712)年序(=この年から出版が始まった)の挿絵入りの類書。日本初の『百科事典』と見なされることもあるとのこと。全105巻81冊に及ぶ膨大な内容の書籍だが、全ページが国立国会図書館によりデジタル化されている。また平凡社東洋文庫から現代語訳注付きの『和漢三才図会』全18巻が出版されており、これも2012年7月現在eBookJapanのサイトで電子書籍版の購入が可能(残念ながら書籍版のいくつかは平凡社のサイトでも絶版状態)。

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和漢三才圖會(倭漢三才図会/ワカン サンサイ ズエ)第49巻【魚類/江海 有隣魚】』にもやはり「鳴門骨」に関する記述があるが、ここでもまだ「鳴門骨」とは呼ばれていない(リンク先の左にある「目次・巻号」> [34][40] > 上のページ数「18/40」から「鯛」の説明。次のスキャン「19/40」の右ページ7行目から以下の「鳴門骨」関連の文章がある)。

【原文】俗傳云西海鯛春夏越阿波鳴門入播攝之地者大骨生瘤焉盡然乎否
【訳文】世間の伝えによれば、西海の鯛は春夏に阿波の鳴門を越えて播・摂津の地に入ってくると(訳注:潮流の強烈なため)大骨に瘤ができる、という。本当にそうなのかどうか。
(島田勇雄ら訳注『和漢三才図会7』/東洋文庫より引用)

ちなみにこの文章の少し前には「播州石浦之産亦佳也」とあり、この時代には既に「明石の鯛」が美味であると珍重されていたことが分かるのも興味深い。また「明石の鯛」の部分も含め、幕末から明治時代にかけての植物学者であった伊藤圭介著(未出版?)の『錦窠魚譜(きんかぎょふ/「か」は穴冠に果)』にそのまま写されている(リンク先の左にある「目次・巻号」> [10][163] > 上のページ数「58/163」)。

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【参考】江戸の町医者であった神田玄泉が著し、我が国初の「魚譜」(魚図鑑)とされるのが『日東魚譜』」である。同書には、初版となる享保4(1719)年序本享保16(1731)年序本()、享保21/元文元(1736)年序本(将軍吉宗が一覧した自筆本とその転写本が残るのみとのこと)、元文6/寛保元(1741)年序本(1点のみが現存しており自筆本ではない)という4種類が知られており、享保21/元文元(1736)年序本以外は「国立国会図書館デジタル化資料」で閲覧可能。ただし各版の「棘鬣魚(タイ)」の項はほぼ同じ内容で、残念ながら「鯛の九つ道具」関連の記載は見つけられなかった。


文献記録上「鳴門骨」の次に登場するのは「三ツ道具」で、その文献とは本草・博物・蘭学者であった後藤梨春/光生が、「張朱鱗」の名で編輯(編集)した宝暦3(1753)年序の滑稽本『龍宮舩』である。ちなみに後藤梨春は、明和2(1765)年に刊行した『紅毛談(おらんだばなし)』の中で「ゑれきてりせいりてい(エレキテル)」を日本で初めて紹介しており(ただ同書は後に絶版命令を受けたのだとか)、この機械のことを平賀源内に教えた人物であるとのこと(こちらを参照)

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龍宮舩(りゅうぐうせん)巻3』に「三ツ道具」について書かれた項がある(リンク先の左にある「目次・巻号」> 巻3 [18] > 上のページ数「15/18」から「棘鬣魚乃三道具」)。

「棘鬣魚乃三ッ道具」
十四五年以来誰(たれ)人の云出せしにや。棘鬣魚(俗に鯛と云へり)乃頭(かしら)に鍬(くわ)鎌(かま)熊手(くまて)とて、此形に似たる骨(ほね)あり。是を俗(そく)に三ッ道具と名付、此その骨(ほね)を三通(みとお)り懐中(くわいちう)すれば諸人に愛嬌(あいきやう)ありて或(あるひ)は官階(くわんかい)立身(りつしん)有にても望(のそみ)ごと思ふまにかなふといふ。

ここでは「三つ道具」を「鍬・鎌・熊手」としている。本資料の14、5年前から「三ッ道具」のことが知られていたならば、、、と、「国立国会図書館デジタル化資料」で1730年代から1750年代の文献を調べてみたが、今回は残念ながら『龍宮舩』以前に「三ッ道具」のことを記載した文献を見つけられなかったため、誰が言い出したのかは未だに不明。後述する『水族写真鯛部』の「棘鬣魚の三ッ道具」の項には、引用元を『龍宮舟』と明記した上で上記の文章がほぼそのまま写されている。

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文献記録上3番目に登場する「道具」は、「九つ道具」の内では恐らく一番の『レアもの』であると思われる「鯛之福玉」で、宝暦7(1757)年序の『随観写真』にその記述がある。非常に興味深い事に、この文献も後藤梨春/光生が著したもの(この人物に関しては他にも色々調べてみる必要がありそう)。

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随観写真(ズイカンシャシン) 魚部2巻』に「鯛之福玉」の図と説明がある(リンク先の左にある「目次・巻号」> 魚部2巻 [39] > 上のページ数「34/39」に「鯛之福玉」の図譜と説明、また「目次・巻号」> 魚部1巻[36] > 上のページ数「7/36」に「棘鬣魚(タヒ)」の説明あり)。ちなみにこのリンクから見られるのは安政5(1858)年の写本である。

長州之俗謂之鯛之咽虱而甚賞味如鯛在于鯛魚之口中呼福玉者含玉之畧語乎

漢字を追うだけでもある程度の意味は伝わってくるが、門外漢の筆者が我流で訳すと「長州の俗、之を鯛の咽虱(のどしらみ)と謂、鯛の如くこれを賞味す。鯛魚の口中にあり、これを福玉、略語で玉と呼ぶ」といったところか(専門家の方がいらっしゃったら是非お助け下さい)。また後述する『水族写真鯛部』の「鯛之福玉」の欄には上の文章がそのまま写されている。ちなみに『随観写真』の「棘鬣魚(タヒ)」の説明の項には「『周防国』で初めて採られたために『周』の魚となった」旨などが記載されている。周防国は現在の山口県東南部にあたり、「鯛の咽虱」を賞味していたという長州藩に属していたというのも(偶然の一致かも知れないが)興味深い。

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【参考】同じく後藤梨春/光生が編纂した『本草綱目補物品目録』(宝暦2(1752)年刊)にも「棘鬣魚」の項があり(「目次・巻号」> [2] [36] > 上のページ数「5/36」に「鱗之屬」「棘鬣魚」)、上記した『周防国』の件が記されている。ただし、こちらの本には「三つ道具」および「鯛之福玉」をはじめとした「九つ道具」に関する記述は無い。



江戸後期の幕臣本草学者でもあった岩崎常正/潅園が、文化4(1807)年に著した『養浩館魚類』(後に『養浩館魚鳥圖』に改題【注】)には「鯛石」「鯛中鯛(鯛のタイ/写真下)」「大龍」「鍬形」「三骨(三つ道具)」「小龍」「竹馬」「鳴門骨」という一気に「八つ道具」がイラスト付きで掲載されている。「鳴門骨」および「三骨(三つ道具)」以外の「六つ道具」に関しては、調べが付いた限り本書が最古の文献記録となる。

同書は東京大学総合研究博物館ニュース・Ouroboros 第15号『「魚名の由来」研究余話 ―鯛の九つ道具―』の中でも「八つ道具」の図(本稿でも後ほど掲載)とともに紹介されているもの。ちなみに『国書総目録』のオンライン版ともいえる『日本古典籍総合目録データベース』で検索すると、どうやら現存するのは東京国立博物館所蔵の1冊のみ(未出版の稿本かも知れない)で、また残念ながら2012年7月時点では「未デジタル化」であるため、本稿で紹介している他の文献のようにネット上で閲覧できない。ただし上野にある東京国立博物館資料館を訪問(リンク先参照/開館は平日のみなのでご注意)すれば、平成6年に同書全頁を撮影した白黒のマイクロフィルムの閲覧は可能である(ただしネット上で見られる写本の一部図版から判断すると同書は美しく彩色されているはずなので、閲覧できる資料がカラーでないのは非常に残念)。

【注】本文と同じ筆跡であることから、常正自身の筆によると思われる「是ハ魚ノミナラズ故、改名して養浩館魚鳥圖と云ベキモノナリ」と書かれた紙が表紙に貼られている。また同書の最終頁には「養浩館圖書」「東渓岩崎*(*は”徴”の中央下の”王”部分が”口”)」とある。更に「文化丁卯歳」と明記されているので、出版/完成年は文化4/1807年で確定(ちなみに常正はこの時21歳)。

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『養浩館魚類(コウヨウカンギョルイ)』には、「鯛石」「鯛中鯛(鯛のタイ)」「大龍」「鍬形」「三骨(三つ道具)」「小龍」「竹馬」「鳴門骨」の「八つ道具」の形状や、鯛の全形と共にそれらの存在場所を示した図が掲載されている。同館における資料請求番号は「和895」。フィルムの#278以降が『養浩館魚類』で、#294が「鯛の八つ道具」の図となる。

鯛の全図の右側端に縦書きされた文(写真下/横向きで読みにくいがご容赦頂きたい)を書き出すと:

今世鯛ノ九ツ道具トテ奇(仄?収?口?とす?)持時は運強ク幸ヲ得ルト云、
其形状圖シ共鯛ノ全形ヲ顕シテ其骨ノ有處ヲ知ラシムナリ

「奇(仄?収?口?とす?)」とした部分をどう読むのか分からないのだが(専門家の方がいらっしゃったら是非お助け下さい)、現代語訳すれば「鯛の九ツ道具を持っていると運が強く、幸福を得ることができるという」「その形状と併せて鯛の全体像を図示し、その骨の在処を知らしめる」といったところか。ただし、この図のどこにも九つ目の「道具」に関する記載がないのだが、、、

「鯛石」の横には:

頭骨ヲ割テ出

とあるが、確かにその通り。ただし下手に頭骨を割ると鯛石は壊れてしまうのでご注意あれ。

また「鳴門骨」の横には:

「此骨二モ有亦二三モ有 鳴門ヲ越ルコトテ骨ヲ生ト云 魚ニ依無モアリ」

とあり(写真上)、現代語訳すれば「この骨が2個のものがあり、また2、3個のものもある。鳴門を越えることで骨を生じるという。魚によっては無いものもある」といったところ(とは言え「2、3個」というのは意味不明)。ただ問題なのが、左ページにある「鳴門骨」の図(写真下左)で、どこをどう見ても「鳴門骨」には見えない不思議な形。もしかしたら常正自身は「鳴門骨」を見たことがなかったのでは、、、と勘繰りたくなるほど「実物」とは異なっている。そう言う意味では「小龍」の形も少々怪しい(写真下中)が、上の「鯛の全形図」をみる限り少なくとも体のどこにあるかという表示は正しい。また(その1)でも述べた通り、同書では「三骨(三つ道具)」を「鎌・鍬・斧」としている(写真下右)。

なお本項の画像はマイクロフィルムからの白黒プリントアウトを更にデジカメで撮影して使用した。著者の死後50年以上経過しているので書籍そのものの著作権は消滅しているはずだが、もしマイクロフィルムからのプリントアウトに関わる著作権などの問題があるようならばご連絡下さい。

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江戸幕府の御書院番(徳川将軍直属の親衛隊)で、博物家でもあった毛利梅園/毛氏梅園元寿(もうりばいえん/もうしばいえんもとひさ)が著した、天保6(1835)年序の『梅園魚品図正(バイエンギョヒンズセイ)』にも、「鯛の九つ道具」の内3つの「道具」に関する記載がある。この書籍に関しては、平成3年に小学館から『魚の手帖―江戸時代の図譜と文献例とでつづる魚の文学図鑑』として解説付きで復刻出版(ただし完全版ではない)されたが、残念ながら現在は絶版。ちなみに『魚の手帖』では p.118/119 が「棘鬣魚(タヒ、マダイ)」の項となる。

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梅園魚品図正(バイエンギョヒンズセイ)巻2』に収録された「棘鬣魚(タヒ、マダイ)」の項、左ページ中央端に「鍬・鎌・鋤に似た骨(三つ道具)」「鯛龍(大龍)」「鯛中ノ鯛(鯛のタイ)」という3つの「道具」の記載がある(リンク先の左にある左にある「目次・巻号」> 巻2 [57] > 上のページ数「4/57」)。

鯛ノ骨中ニ各其形状アル骨ヲ以テ國俗三ツ道具ト云 鍬ニ似タル骨、鎌ニ似タル骨、鋤ニ似タル骨アリ是也
頭骨龍骨ニ似 故ニ鯛龍ト云 鰭ニ鯛ノ状ニ似ル骨アリ 是を鯛中ノ鯛ト云 黒鯛又同シ

ここでは面白いことに「大龍」が「鯛龍」と呼ばれている。また本書の「三つ道具」は「鍬・鎌・鋤」。個人的に最重要なのが最後の一文で、少なくともクロダイにも「魚のサカナ」が存在していることはこの頃には知られていたことになる。ちなみにこの『魚譜』は著者自らが釣獲、あるいは鮮魚店で購入した魚の写生図を多く含むことが特徴の1つであるとのこと(他の図譜は他の所から写していることが多い)。この「棘鬣魚(タヒ、マダイ)」に関しても、端書きから”甲午2月”(天保5/1834年2月)に手に入れて写生したものであることが分かる。

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大阪の魚商であったという青苔園が著し、高嶋春松の画と合わせて嘉永2(1849)年に出版された『魚貝能毒品物図考』にも「鯛の九つ道具」関連の記述がある。本書は現在の大阪市西区江之子島(えのこじま)1丁目にあった「雑喉場鮮魚市(ざこばなまうをいち)に出入する人々を対象に、魚貝の性質・効能・毒性・形状・味の良し悪し・食い合わせ・産地等を記した図入通俗書」であったとのこと(「」内はこちらから引用)。ただ本書の魚の図を参考にして各魚種を判別するのはかなり難しかったのではなかろうか、、、と思われてならない。

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魚貝能毒品物図考(ギョカイノウドクヒンブツズコウ)』に「三つ道具」「大龍」関連の記載がある(リンク先の上のページ数「6/81」から「鯛」の仲間の全図および説明、「8/81」の右側9行目から「鯛の九つ道具」関連の記述)。

凡て諸國浦々に鯛は多しといへとも阿波の鳴門をこえ摂播の海へ出る魚頭に瘤を生ず 
明石の浦の名産故一夜明の鯛とて風味格別なり
この鯛骨に妙あり 頭の皮を剥げば龍の如き骨あり
背の鰭のところに鋤鍬の如き二つの骨あり

1行目は「鳴門骨」に関する記述かと思いきや、阿波の鳴門をこえ摂播の海へ出ると「頭」に瘤ができてしまうとのこと。額部が立派に膨出したマダイの成熟雄個体を指しているのか、コブダイと混同しているのか(まさか!)は分からないが、本来の「鳴門骨」と混同していると判断して間違いなかろう(ただし「額の鳴門瘤」に関する記述は羽倉簡堂著の『饌書』という文献中にもある【参考】)。頭にある「龍の如き骨」はもちろん「大龍」のこと。ただし、この文献では「三つ道具」が、鋤と鍬の「二つ道具」になってしまっている。

と、少々いい加減な印象を受けないでもない同書であるが、上に引用した部分の2行目にある「一夜明の鯛」に関しては要注目。正徳2(1712)年序の『和漢三才図会』で既に「明石の鯛」が特別扱いされていることは上述した通りだが、現代でも同地で行われているマダイの『活け越し』(水揚げ後の「荒魚」を一晩暗い水槽の中で落ち着かせること/こちらを参照)が、1849年以前から行われていたこと、更にそのことが少なくとも大阪では知られていたことを強く示唆するものである。ちなみに本書の初版は『海川諸魚掌中市鑒(最後の文字は「鑑」の右側の下に金)』という書名で天保8(1837)年に出版されているとのこと。今回の調査では残念ながらこの「初版」を確認する事はできなかったが、こちらにも「一夜明の鯛」に関して同じ記述があれば、『活け越し』の歴史が少なくとも約12年遡る事となる。なおリンク先の上のページ数「7/81」の右頁・左下のイラストには「小龍鯛」とあるが、これは「九つ道具」の「小龍」とは全く関係なく「知鯛(ちだい)」の別名である。

【参考】羽倉簡堂/用九著の『饌書』(弘化2(1845)年跋)には、『魚貝能毒品物図考』と同様な「額の鳴門瘤」に関する記述あり。またこのような鯛を「峡鯛」と呼ぶとある(リンク先の上のページ数「5/36」)。

従讃豫過鳴門而東者額上作瘤 是曰峡鯛


また後述する『水族写真鯛部』にはマダイの雄成魚と思われるイラストに「サルコダイ」とあり、『説部』の方の「サルコダイ」の説明文を見ると『食療正要』からの引用として「瘤鯛」の名がある。そこで松岡恕庵/玄達著の 『食療正要』(明和6(1769)年刊)を調べてみると(リンク先の[4] [44] > 上のページ数「4/44」):

骨(コ)虎(ブ)鯛(タイ)方頭


と、当ててある漢字は異なるものの、確かに「こぶたい」という記述が存在する。ちなみにこの『食療正要』には、『随観写真』のところで紹介した「周防の国」から「魚+周」になったという件が書かれているが、出版年からすればこちらの方が『随観写真』より早い。

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江戸神田多町で青物商(八百屋)を営んでいたという奥倉辰行(おくくらたつゆき/通称:甲賀屋長右衛門・1859年没)著の『水族四帖』(1850年頃?)および『水族写真鯛部』(安政2(1855)年序)は、国立国会図書館によりデジタル化され閲覧可能。またこれらの書は、東京大学総合研究博物館ニュース・Ouroboros 第15号『「魚名の由来」研究余話 ―鯛の九つ道具―』の中で紹介されていたもの。ちなみに『水族写真鯛部』は、正確には「図部」(『水族写真 鯛部』/1冊版と2冊版が存在)と「説部」 (『水族写真説』1冊のみ)に分けられるが、序/跋の違いなどでそれぞれに3バージョンずつ存在しているとのこと。実際、国立国会図書館デジタルアーカイブ内だけで「午-53」「特1-912」「特7-150」「特7-151」「特7-152」、および後ほど紹介する「説部」の手稿本である「寄別10-55」の6種類もの資料があるが、下のリンク先では、これらの中でも色刷が優れているとされる(こちらを参照)安政2年本の「特7-151」を見ることができる(もっとも「説部」内の「鯛の九つ道具」関連部分はモノクロなので色刷の優劣は関係はないのだが)。ちなみに奥倉は上述したように元々は青物商であったが、江戸時代後期の考証学者で、『箋注倭名類聚抄』の校注者としても知られる狩谷棭斎(えきさい;「えき」は木扁に夜)に画才を見いだされ、その進言で魚類の写生に専念するようになったとのこと。

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◎『水族四帖』「夏」の巻のスキャン#2(リンク先の左にある「目次・巻号」> 夏[57] > 上のページ数「2/57」)が「たひ/鯛」の項であり、同じ巻の裏表紙内側(左にある「目次・巻号」> 夏[57] > 上のページ数「57/57」)に「鯛の八つ道具」の図を表題なしで掲載。ただし同巻本文中に「鯛の八つ道具」に関する記載は発見できず、「鳴門骨」に関してのみ、図中に「此骨魚ニヨリナキモノアリ」と傍記されている(上記した「養浩館魚類(魚鳥圖)」からの引用なのか?)。ちなみにリンク先で見られるのは奥倉による自筆手稿本で、押されている蔵書印から、幕末から明治時代にかけての植物学者であった伊藤圭介、およびその孫でやはり明治から昭和時代初期の植物学者であった伊藤篤太郎の書籍コレクション「伊藤文庫」の一部であったことが分かる。

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◎『水族写真鯛部』「説」のスキャン#10(リンク先の左にある「目次・巻号」> [3][43] > 上のページ数「10/43」)では「鯛の九つ道具」に関する説明がなされており、同#11(左にある「目次・巻号」> [3][43] > 上のページ数「11/43」)には「鯛の九つ道具」を示した「鯛名所之図」(『鯛之福玉(たひのふくだま)』を含めて「水族四帖」の図を改作したもの)が掲載されている。また同資料内の「鯛の九つ道具」の説明に関しては、読みやすいように「変体仮名」を現代仮名に直したものを以下に「引用」。

古来より言い伝へに鯛の九ツ道具を所持なせは物に不自由なし。又福禄を得ると云り。張朱鱗(宝暦年中東都住人)竜宮舟(筆者注:『竜宮舩』)に云、棘鬣魚(たひ)の三ッ道具、十四五年以来誰(たれ)人の云出せしにや。鯛の頭に鍬鎌熊手とて、此形に似たる骨あり。是を俗に三ッ道具と名付、此の三品の骨を三通り懐中すれば諸人愛嬌(あいきゃう)ありて或は官階立身有ても望事(のぞみこと)思ふまにかなふと云う。「鯛石(たひせき)」頭上にある石なり。此石たひにかぎらず諸魚に皆あり。凡て石大なる魚は浮ばず、又驚(をとろき)易し。是魚の心なり。或は云耳(みみ)なり。「大龍(だいりゃう)」眼の下にある大骨なり。形龍に似たり。「小龍(こりゃう)」尾の端(わき)にあり。大龍に似て小さし。「鯛中鯛(たひちうのたひ)」両旁の鰭の下にあり。形鯛に似たり。「鍬形(くわかた)」背鰭の下にあり。「竹馬(ちくば)」尾の旁にあり。「鳴門骨(なるとほね)」此骨魚によりて無きもあり。之を本朝食鏡(筆者注:『本朝食鑑』)に瘤鯛(こぶだひ)と云。阿波(あは)鳴門(なると)灘(なだ)を過て瘤を生ずと云。「鯛之福玉(たひのふくだま)」随観写真云 長州之俗謂之鯛之咽虱(のどしらみ)而甚賞味如鯛。在于鯛魚之口中呼福玉者。含(ふくみ)玉(たま)之畧語乎。
今其三ッ道具及諸名の在所を知らしめんが為に図を左に録す。

「鳴門骨」の項で引用されている人見必大の『本朝食鑑』、「三つ道具」の項で引用されている張朱鱗(後藤梨春/光生)の『竜宮舩』、「鯛之福玉」の項で引用されている同じく後藤梨春の『随観写真』に関しては前述。『鯛之福玉』に関しては、「随観写真」の文章をそのまま引用しているため漢文となっている。鯛石(耳石)が、『耳』として働いていること、また鯛以外の魚にも存在していることはこの時点でも知られていたことが分かる。


また『水族写真鯛部』の出版前に「校正」用として使われた可能性が高いと思われる『水族写真説』(同書には手書きの訂正/書き込みが数多くなされ、それらの校正は上述した『水族写真鯛部』にしっかり反映されている)の奥倉自筆の手稿本もデジタル化されており、同様に閲覧可能。同書の編集過程を見て取れる素晴らしい資料である。ただし「鯛の九つ道具」部分に関しては、完成版の『水族写真鯛部』とほぼ同じ内容。

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◎『水族写真説』のスキャン#11(リンク先の上のページ数「11/65」)では「鯛の九つ道具」に関する説明がなされており、同#13(上のページ数「13/65」)では1ページ分の大きさの「鯛之九ッ道具全圖」(『水族写真鯛部』では「鯛名所之図」と改題され、半ページ分の大きさで掲載されているもの。面白いことに手稿本の朱書き校正では「腹内諸名所の圖」となっている)を見ることができる。

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江戸時代の文献に見られる「鯛の九つ道具」の歴史のご紹介は以上。本稿の執筆にはたっぷり2ヶ月以上掛かっているので個人的には非常に思い入れのあるエントリーであるが、実際問題この「あとがき」を読んで下さっている方がどれほどいるか、我ながら甚だ疑問ではある、、、



【文献リスト】
今回調査した文献で本文中に登場しなかったものを以下に列記する。

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◎「鯛/タヒ/棘鬣魚」などの項はあるが「鯛の九つ道具」関連の記載を見つけられなかったもの
『本朝食鑑』以前

昌住編『新撰字鏡』900年頃成立(リンク先は『群書類従本』)
深根輔仁著・丹波元簡校訂『本草和名』延喜18(918)年頃成立(リンク先は寛政8(1796)年刊の再販本)
源順編纂・狩谷棭斎校注『箋注倭名類聚抄』承平年間(930年頃)成立(10巻本版/リンク先は明治(1883)年刊本)
源順著・那波道円校訂/刊行『倭名類聚鈔』承平年間成立(20巻本版/リンク先は元和3(1617)年刊の再販本)
丹波康頼撰『医心方』永観2(984)年成立(リンク先は安政6(1859)年序の再販本)
曲直瀬道三著『宜禁本草』成立年不明 寛永6年(1629)初版
曲直瀬玄朔編『日用食性寛永10(1633)年刊
中村テキ斎著『訓蒙図彙』寛文6(1666)年序
山岡元隣『食物和歌本草増補』寛文7 (1667)年刊
名古屋玄医著『食物本草』寛文11(1671)年刊
向井元升著『庖厨備用倭名本草』貞享元(1684)年刊 - ここでは「紅料魚」となっている。
福田松珀編著『増補日用食性』元禄3(1690)年刊
新井玄圭著『食物本草大成』元禄7(1694)年刊
中村テキ斎著『頭書増補訓蒙図彙』元禄8(1695)年刊
『本朝食鑑』以降
岡本一抱著『広益本草大成(和語本草綱目)』元禄11(1698)年刊
稲生若水著『結髦居別集』正徳4(1714)年序
本郷正豊著?『薬種重宝記』正徳4(1714)年刊(リンク先は再販本)
稲生若水著『庶物類纂』元文3(1738)年(リンク先は写本)
中野崇庵著「懐中食鑑」宝暦12(1762)年刊(リンク先は再販本)
秀国/勝間竜水著『海の幸』宝暦12(1762)年序
香月牛山著『巻懐食鏡』明和3(1766)年刊
北尾政美著『魚貝譜』享和2(1802)年刊
曽占春著『占春斎魚品』文化6(1809)年序
小野蘭山著『飲膳摘要』文化14(1817)年刊
石川元混著『日養食鑑』文政3(1820)年刊
水谷豊文著『物品識名拾遺』文政8(1825)年跋
武井周作著『魚鑑天保2(1831)年刊
小野蘭山著『巻懐食鏡会識』文政10(1827)年写(中林清方写)
畔田翠山著『水族志』文政10(1827)年自序(リンク先は再販本)
畔田翠山著『熊野物産初志嘉永元(1848)年完成?(リンク先は山本錫夫による写本) 
栗本丹州著『栗氏魚譜』(写本)年号不明
栗本丹州著・奥倉辰行写『異魚図纂・勢海百鱗』年号不明(奥倉による写本)
著者不明『魚譜』年号不明(白井文庫)
著者不明『魚譜』年号不明
著者不明『浴蔵魚譜』年号不明(伊藤文庫)

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◎書名などから「鯛/タヒ/棘鬣魚」などの項があってもおかしくないと思われたが、実際には見つけられなかったもの

吉田宗恂著『本草序例抄寛永18(1641)年刊
林羅山著『多識編』慶安2(1649)年刊
新井玄圭編「食物摘要」寛文 9(1669)年序/天和3(1683)年刊
木村孔恭筆『蒹葭堂魚譜』江戸中期
稲生若水著『本草図翼』正徳4(1714)年刊
吉田高憲著『魚譜』江戸末期・安政6(1777)年以前
淵在寛述『陸氏草木鳥獣虫魚疏図解』安永8(1779)年刊
岩崎常正著『武江産物志』文政7(1824)年序
栗本丹洲編・大淵常範校訂『皇和魚譜天保9(1838)年刊
小野蘭山著『魚譜文久元(1861)年刊
著者不明『難波魚譜』年号不明
伊藤謙著『日本魚譜』年号不明(自筆の稿本)
高木春山著『春山魚譜』年号不明
栗本丹州編・奥倉辰行写『異魚図賛』年号不明